7月5日 14:02 永眠

7月4日父が亡くなる前の日わたしは病院に泊まった。
姉は夕方帰り、夜ご飯を持って来てくれて、9時半ごろまでいてくれた。
姉が帰ってからは一人で父の姿を見守るのが怖かった。
ベッドのそばにいて手を握りしめ、ここにいるからね。ずっといるからねと
父に云っていた。酸素マスクの酸素レベルは全開になっているが大きく口を開けて
一生懸命に呼吸をしていた。時々、目を開けて私を見つめるような時が何度があった。
私に何か云いたかったのかもしれない。苦しいの?と聞くとうなずいた。
この日医師は1度も来なかった。
機会の音が夜中じゅうなっていた。ずっと励ますしかなかった。
左手は腕から全部パンパンにむくんでいてとても可哀想だった。
足の裏はチアノーゼになり紫色に氷のように冷たかった。
朝方になると苦しいせいなのか時々反射的に手をあげ、苦しいことを訴えているかのようだった。
着実に死が目の前に来ていた。
脈拍が計れなくなって来た。
9時頃にやっと回診で担当の先生が回って来た。
もう死がまもないとのこと。会わせたい方がいたら今のうちに会わせてあげてくださいとのこと。
午後になり、血圧が下がり、血圧をあげる薬を入れたあと、父の呼吸がだんだんとゆっくりになって来た
母が医師に云った。お願いします。先生。すると医師はいろんな薬を使ってみたのですがこれ以上のことはできません。と云った。
一息、一息がゆっくりになった。家族が見守る中、息を引き取った。
最後の息が止まった時、父は眠るように目をしっかりと閉じた。ずっと抱きついていた。
見る見るうちに顔色が変わって、唇は紫色になってきた。
苦しみから解放され、やっと闘いは終わった。
がん告知後、1年1ヶ月の闘病だった。

7月4日 容態急変

7月1日から容態が変わった。
2日は体内の酸素が低下して酸素マスクをつけていた。
3日の朝、病院から連絡が入り、肺に水が溜まっているので
水を抜いて呼吸を楽にするとのことだった。朝、バタバタしているなか
同意書にサインした。あとから考えたらこんなことしても無駄だった。
死は間近だったにもかかわらずこんなことをしたのを後悔した。
4日は病院に行ってみると治療室に入っていた。どうして連絡をくれなかったのか。
呼吸は荒く、半分寝ている状態で呼びかければ首を動かしてくれた。
苦しそうだった。容態が悪くなってるにも関わらず医師が来なかった。
ちょうど日曜日で休みだったとは云え、当直の医師すら見に来ない。
なんていう病院なんだと思った。わたしはこの日、病院に泊まった。
この日は家族、親戚がお見舞いに会いに来た。みんな泣いていた。


下血

口から食事がとれなくなり4月28日に再入院をしてから1ヶ月以上がたった。
6月に入り、トイレに行くと血が便器に落ちるようになった。
痔だと思うが6月7日下血で大量出血をしてしまい、集中治療室にはいった。
医師は今夜が山かもしれないと姉は一夜を病院で明かした。わたしは
外国に在住なのでとにかく早くチケットをとり、2日後に到着した。

空港到着後、まっすぐに病院に向かった。意識はもどっていたが気管から変なおとがして
しゃべりにくそうだった。父は少しぼけていたが
今日はつかれただろうから早くねなさいといってくれた。間に合って本当に良かった。
出血もおさまり、何日かごには食事をしても良いことになった。
とは言っても2口とかしか食べれない。
6月29日、夜中の2時半に電話がなった。出るのがこわかった。どきどきして電話に出ると姉から
だった。再度、下血してしまい処置をしているそうなので、すぐに病院にいった。
出血は300ミリもあり、すぐに輸血をした。
3、4日後、出血も納まり食べ物を開始した。海苔巻きがたべたいというので作ってもっていくが2口しか食べれない。アイスもプリンも2口くらいだった。
医師からの話ではなるべく家に帰してあげて家族と過ごさせてあげたいと努力をしたいとのこと。
わたしはフライトをキャンセルして父のそばにいてあげることに決めた。
静脈の点滴では栄養をとることは限界なので胃に穴をあけて直接栄養をおくりこむように
するという医師からの話だったがこのような心身状態で本当に必要であるのか姉と迷っていた。
確実に悪くなっているのは確か、早く家に帰してあげたい。6月の後半からは眠ることが多くなった。
7月1日は起こしても目を覚ませない。返事はするけど眠ってしまう。
このまま眠り続けて昏睡状態にはいってしまうのだろうか。
見守る家族にはとてもつらい状況だ。






脳転移と放射線治療

脳転移がはっきりとわかったのは2009年の4月だった。
告知されてからやく1年のときだった。抗がん剤1コースをなんとかクリアしたが、ガン細胞の進行は
早かった。小細胞肺がんは進行が早いだけに抗がん剤がよく効く
というがシスプラチンの抗がん剤が投与できていればガンは消えたのであろうか。
MRIの結果は小さな2ミリくらいの腫瘍が何カ所かに見つかった。
放射線はあまり副作用がないと効いたが本人は抗がん剤と同様に悪心、
食欲不振、頭痛、倦怠感 極度の貧血だった。弱っている体に放射線を照射するのはやはり
苦しかっただろう。
食事が全くとれなくなり、体力が衰弱してきたのが怖くなったのか本人の
リクエストで入院となった。J大学病院で肺の治療はしていたがR病院は近いのでO医師のところへ
再入院した。O医師は何かあったらすぐに来なさいと言ってくれていたので心強い。

    うちにくるハチドリさん。
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抗がん剤の開始

何回も倒れて意識消失をしていたのと狭心症が
あったため、心臓に負担がかからないようシスプラチン
の投与ではなくカルボプラチンの投与をすることになった。
1コースの1回目、たまたまなのか薬が合わなかったのか
投与直後に発作が起こり、中断した。投与は延期になってしまった。
2回目以降はうまく行き、続けていくうちに発作がおさまるように
なった。抗がん剤の副作用は下痢と食欲不振。でも水は2リットル
くらい飲まなくてはいけない。
8月からは外来で抗がん剤を受けるようになり、11月で5コース目終了。
しばらくお休みに入る。アメリカ在住のわたしは2週間、主人と二人で、
父の様子を見に飛行機に乗った。成田からリムジンバスで停留所に着くと
ちょうど姉が車で迎えに来た。父も車から出て来て、喜んで迎えてくれた。
思ったより元気そうだったが頭がツルツルになっていた。
もともとなかった髪だが。。。

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肺がんの告知  

J大学病院のS医師からのお話があり、最初は家族が
呼ばれた。細胞診の検査の結果、明らかに進展型小細胞肺がん
と診断された。ステージはⅥで肝臓と骨に遠隔転移をしている。
余命は平均で1年半と宣告された。。。。
父に告知をする際に、彼がどんな性格なのか言葉の使い方など
どんな点に気をつけなくてはいけないかを尋ねられたので
わたしと姉はこう云いました。『意外と肝っ玉の小さい人なんです。』
『余命に関しては彼が聞かない限り言わないほうがいいと』
お伝えしました。
父はショックだったと思う。
わたしと姉は涙をこらえながら父のそばで先生の話を聞いた。
ここで泣いて取り乱したら父が不安させてしまうと思い、泣いては
いけないと自分に言い聞かせていた。でも涙がボロボロ勝手に出てきてしまった。

4月 2008年 父、倒れる!

私の父71歳は、去年の5月頃に意識喪失をして倒れました。
近くのクリニックで見てもらい、血圧が高かったので血圧を下げる薬を
処方されました。けれどまた、夜中にトイレに行く途中で倒れ、
その時は15~20分くらい倒れていたらしく失禁していたそうです。
このことがショックでR病院の循環器科に行き、心電図もMRIの結果も以上なしでしたので
様子を見るということになり一安心して帰宅しました。
その後、また倒れて今度は顔面を打ってしまい、歯も折ってしまいました。
循環器科O先生に再診察してもらい、24時間の心電図をつけ異常がわかりました。
冠動脈造影検査、アセチルコリン負荷試験を行い、冠攣縮性狭心症の診断がでました。
その後、肺がんの疑いありで、J大学病院に呼吸器科に転院しました。

狭心症の診断

意識消失発作のため誘導心電図にて
完全房室ブロック症と診断し入院となった。
いわゆる狭心症だった。確かに、昔に、思い出せば10年くらい前に
何回か倒れたことがあった。バスの中で倒れ、意識喪失したことと
お酒の付き合いの席でのことだった。でも胸が痛くなるということが
全くなかった。このころ自分では、お酒を飲んで
血糖値が下がりすぎたのだと自分で勝手に考えていた。
医者に行ってそのことを先生に伝えたこともあったのだがあまり
詳しい検査もせずにいた。この頃はタバコが原因だったのでしょう。
入院後、肺がんの疑いがあり、J大学病院に転院をした。